No Theory
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 いつかのグループワークでの話。ほぼ初対面の十数人が集まって、ある議題と制限時間が設けられた。それほど建設的な議論もなされないまま、ただ時間だけが刻々と過ぎ、あっという間にタイムアップ間近。誰かが「とりあえず、ひとつの結論だけでも出しておこう」と言い、いくつか挙がった案に対して多数決を試みた。しかし、間髪入れずに他の誰かが「少数派の意見も重要だ」と言ってそれを拒否。多数決を提案した者は依然として持論の正しさを認めながらも、今後しばらくは自分たちが同じグループの中で行動しなければならないという事実に気をとめ、沈黙することでその場の不和を避けた。彼はその時、不和と正論(と思われたもの)の重さを秤にかけたのだった。タイムアップの後に下されたグループワークの評価は言うまでもない。

 さて、民主主義とは何だろう。思想の定義はなかなか複雑ではあるが、私はその一つの側面に「多数決」があってもいいと思う。人は自らの正しさを示す時、一体何をすればいいのだろう。初めからあなたを正しいと確信できるのは、あなたしかいない。では、それを他人にも証明するための公正な材料は果たしてどこにあるのか。イデアの存在に拘泥するのも結構だが、あくまで今は「証明する方法」を論じている。

 その方法が「他人」にこそあると信じて疑わない私は浅はかだろうか。無論、多数決の公正さを期すための努力はあってしかるべきだ。情報の非対称性を解消するために、私たちは同じ理解のステージに上がらなければならない。しかし今度は、そのステージの傾きを正しく測るすべがないことに気が付けば、最早その後の展開がどうなるかは容易に想像がつくだろう。結局、私たちが公正な評価をどこかから手に入れる際には、数の優位性に頼るほかないのだ。

 これは余談だが、ある高名な学者は「証明の方法を論じるということは、それすなわち科学をするのと同義だ」という趣旨のことを述べている。検証が繰り返される仮定そのものが科学であり、それが民主主義の性格とも一致するというのだ。多数決はけしてその場限りのものでなく、素直に他人にあやかり、出来得る限り何度も繰り返し行うことで、私たちを少しずつ正しさに近づけてくれるものだ。多数決は実は公正であり、途中であり、民主主義的である。それゆえに民主主義とはおおよそ科学であり、それらはおしなべて「その程度」のものであるともいえる。

 話を元に戻すと、あのグループワークにおける私の振舞い(沈黙を含む)は今でも間違っていなかったと思う。これから多数決を感情的に嫌う人には「まさか君は科学をも否定するのか。生粋の宗教家だなぁ」などと言って、ニヒルな笑みを浮かべながら変な人扱いされてみるのも悪くないのかもしれない。まぁ、絶対にしないのだけれども。
Study 〒*0
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Author: KEY

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